1.好奇心を大切にしたい。

図鑑やHPを見ていると、実際に幼虫のオスメスを判別したいと考えたり、蛹(さなぎ)や羽化直後の白い羽のカブトムシを見たいと思うことはありませんか?

私は今から30年以上前、多分小学2年生か3年生の頃に蛹を見たくて何頭ものカブトムシを殺してしまったことがあります。ある初夏のこと、家の近所の八百屋さんに大きなハチミツ瓶に入ったカブトムシの蛹が売られていました。壁面に蛹室を作っているわけではないので外からは何も見えないのですが「そのまま1ヶ月ほどすると成虫が現れます」とされていたように思います。

「カブトムシのサナギ!?」それを見た瞬間、私は矢も盾もたまらず大急ぎで自宅に戻り、なけなし小遣いを握り締めて瓶を買いに走りました。そしてその重たい宝物をそっと持ちかえった私は、すぐに、でも慎重に土を掘り返しはじめました。図鑑で見たあの赤茶色の蛹がここにいる!憧れを前に、私の胸が踊りました。
しかし。。。土はかなり硬く締まっており、慎重に掘り進むとはいっても子供の手のこと、それまでより少し固い土の塊に力を込めた時のことでした。「あっ!」っと思ったときには時すでに遅し。。。指は蛹室を突き破り、ポッカリと空いた内部では、角を折られたサナギがどろりとした体液を流す無残な骸になっていました。

途方に暮れた私はしばらく思い悩んだ末に、その瓶を持って八百屋のオバちゃんの所に向かいました。「あ、あのぉ、これ、、、死んでたんだけど。。(赤面)」 他愛のない子供の嘘。今思えば優しさだったのでしょう「あら、ごめんね。じゃ、こっちを持ってって」と云って、オバちゃんは新しい瓶を差し出してくれました。

多少の罪悪感を持ちながら、でも少しホッとしながら私は家に戻ると、再び、今度はもっともっと慎重に。。。

結果は同じでした。泣き出したい気持ちを抑えて、私はもう一度オバちゃんの前に立ちました。おずおずと差し出す瓶を見て、オバちゃんはちょっと困ったような、でも少し笑いかけたような顔をして
「あらあら、ねぇタカシくん、これは掘らずにそっとしておかなきゃダメなのよ。。。じゃぁ、これ。大事にね。」
真っ赤になってうつむいている、近所で評判の『昆虫博士』だった私の手に、そう云って3つめの瓶を渡してくれたのです。

3頭目の蛹がその後どんな運命にあったのか、、、についてはご想像にお任せしましょう。結局私は羽化後の白い羽のカブトムシを見ることなく幼少時代を過ごすことになりました。

けっして無恥ではなく、いやむしろ人一倍羞恥心の強かった私があからさまな嘘を重ねるほどの希求。それは好奇心と呼ぶには余りある、内側から湧き上がる止むに止まれぬ衝動だったのだろうと今考えます。

子供達は図鑑で見た昆虫の不可思議を、実際にその目で確かめたいと云う強い欲求を持つことがあります。虫だけではなく、TVで毎晩野球を見ていながらやっぱり実際に野球場に行きたいと願うし、海の水は塩辛いと知ってはいても嬉々として波に飛び込んで行く。雪が積もれば親がどんなに止めたって口に入れたりもします。
子供達にとって、書物やTVで知る世界は「おとぎばなし」と何も違いがないのだろうと思います。その空想とも事実ともつかぬ世界が現実のものとして目の前に繰り広げられる感動は、おそらく私たちの想像をはるかに超えた強い喜びをもって受け取られるのではないでしょうか。

蛹を見るために蛹室に細工をすることは羽化不全によって命を奪うことにもなりかねません。人工蛹室は不測の事故の際にだけ用いるべきで、興味本意で利用するような命を蔑ろにする行為をしてはいけない、との意見もあるでしょう。
でも、私は子供達の好奇心を押さえ込むべきではないと考えます。命の大切さは親と子の不断の生活の中で徐々に身について行くもので、昆虫飼育の楽しみを「情操教育」に矮小化してしまうことも、命の大切さを「好奇心を自制すること」にすり変えてしまうことにもあまり賛同できません。

蛹を観察するためのコンテンツを掲載しているのも、フィールドに出ることを強くお勧めしているのも、こんな私の信念から行っていることです。

子供達の好奇心を満たしてやることは、無限の可能性への道標なのかもしれない。

そんな大仰なことを、私は半ば本気で信じているのです。

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